自己紹介と野望その1~小学校卒業まで~

日記



自己紹介と野望その1~小学校卒業まで~


自己紹介と野望


みなさんこんにちは!
今まで色々な記事をここに書いてきましたHKです。
今日は自分がどんなことを考えてブログを書いたり日々生きているのか。また、ここまでどんな人生を送ってきたのかを簡単?に綴ってみたいなと思います!
基本的にはバスケットボールの事ばかり書いてきたのでそこに絡めた話をしていけたらなぁと思いますね!


生まれ~小学校卒業まで


まず僕が産まれたのは千葉県の市川市というところで場所でいうと東京の江戸川区と江戸川を挟んだ隣。ディズニーランドのある浦安市の隣にあたる場所ですね。
住んでる当初は何も感じてませんでしたがベッドタウンで都会というよりは都内に出やすくて便利なところなんだなぁと今は感じます。

小学校3年生の終わりからバスケットボール(小学校はミニバスケットボールと言います)を始めました。
3年生は仮入部という扱いなので4年生から試合に出られたり登録が出来るのですが自分たちが入部したバスケ部は弱小。。

部活の顧問の先生はラグビー部上がりのバスケットは素人。でも練習は鬼のように走る練習で100kgくらい体格があって怒鳴ると鬼のように怖い。
当時は体育館20週の練習やドリブルシュート100本連続とかが地獄でしたね。(今は体育館20週なんて余裕だしもっと辛い練習知ってますけど。笑)
アシスタントコーチは理科の先生でなんかクネクネしてる細い人
もう一人のコーチは用務員のおじさん(当時は20代だったと思うのでおじさんは失礼でしたねw今の自分と同じか年下か。笑)
今振り返れば彼らにバスケットボールの経験があったのかどうかとかどれくらいの指導年数があったのかとかまったくわかりませんし気にしてませんでした。
小学生だしね。笑


そう、小4の時は年間で1勝をするのが目標のチームでした。その年の大会で県で準優勝の学校とあたり110対0で負けたのも覚えています。これは今でも話のネタに上がります。笑
だってそもそもリングに向かって打ったシュートがフリースロー2本だけなんですから。笑
今考えると110点とるよりも相手を0点に抑えることの難しさがとてもわかります。相当な実力差があったんでしょうね。笑
ちなみに年間で1勝だけ出来たのも覚えています(vs鬼高小)
この鬼高は自分たちの小学校生活に常に付きまとう学校だったと記憶しています。(いや、なんなら中学生活まで絡んでくる面子でしたね)
ちなみに1点差。


その後、5年生ではちょぴっとだけ強くなって市内でベスト8のチーム(このころの市川市は市川・浦安地区となっていてだいたい20校くらいあったんじゃないかなと思います。)
夏の大会はやっぱり鬼高小、このとき大会の直前で自分と同学年のセンター(あだ名ではないけど通称ゴリ)が捻挫だかなんだかをして離脱していました。
彼は小学生にして身長が170くらいあったのです。(小6のときは171くらいだと思うけど5年生のときだったのでいくつだったかは忘れました)
もちろん技術や体力は小学生なので一人いれば勝てるってわけじゃないのですがやっぱり相当心強かったですよね。つまり離脱したこの大会は相当心細かったと思います。
案の定、市内ベスト8で負けました。
この年の最後の大会とかはまったく覚えていません。てゆうか自分の代が色々ありすぎて。笑




そして訪れた自分の代。
前々から自分たちの代はまぁまぁ強いだろって言われてたのでなんとなーくなんとかなりそうな気がしてました。ゴリもいるし。笑
たぶん新人戦。どこと当たったとかは覚えてないけど市内でベスト4に入ったと思います(3位だったと思うけど決定戦やったかどうかは覚えてません。)

その結果があり上位のチームだけが行ける大会に招待されました。(1位、2位のチームが別の大会とかぶったかなんかで辞退したため。ラッキー)
なんか市原とかでやった大会だったと思います。当時は試合会場に行く車の中で話しているのが一番の楽しみだったのを記憶しています。
この大会の記憶はあいまいですけどたぶん藤崎とかに負けたんだと思います。違うかな?でも負けました。
(パンチラ回転少女とかもこのくらいの時に出たネタだったかな?あれ?小4のときだっけ?)

そのあと夏に大会があるのですが去年ゴリの捻挫で離脱した大会とは別の大会がありました。
そこには県内の別の地区の小学校とかも出てくるのでけっこう強いところがいたりします。ええ、覚えています。
藤崎に負けたことと谷津に勝ったことを。(藤崎ってどこにあるの?今でも場所は知りません。谷津は中学校に行ってからですが1つ上の代が全国優勝しました。)

まぁなんかそんなに悪い印象じゃなかった中で迎えようとしていた夏の市内大会。
やってくれました。
ゴリの捻挫です。

そう、今年も僕たちはセンター抜きで闘わないとならないのでした。そして市のベスト8。これに勝てばベスト4ってとこで当たったのはまたも鬼高小。これに関してはもうなんか仕組まれてたんじゃないかと思うくらいまたかよって感じでした。色々なあだ名も生まれたと思います。(何とかボンバーみたいなあだ名を監督につけていた気がします。)
そう。負けたのです。
最後まで競ったのですがやはり負けました。ずーんてなりますよね。(なったか覚えてないけど)

そんなほろ苦い夏をのりこえて迎えた秋の関東ミニバス予選。
市内大会で当たったのは塩焼、真間、幸。今考えるとハードな連戦。
当時の塩焼はどんなチームとかは覚えてないけどけっこう速いやつがいたなーって記憶がなんとなくあります。まぁこの3チームからはそれぞれエースが同じ中学に行くってゆう事が起きるのですが。
真間はデカイ。小学生にして170が2枚みたいなチームでした。一人は後に野球部に行ったと思いますが。これがいつも2点差とかの試合なんですよ。辛かった。
そして決勝は幸小学校。よく覚えてないけど聞く話だと6点差だったってすげー言われた記憶があります。準決勝が一番辛かった。。

そう、ついに小4の時は1勝が目標だったチームが市内大会で優勝を手にしたのです。このときはうれしかったのを覚えているようないないようなw
これに優勝したことにより僕たちは関東大会千葉県予選へと駒を進めたのでしたが(2位でも行けたかな)何よりうれしかったのはこの大会は平日。そう学校を休んで行くことになるのです。ひゃほーいって気持ちでした。まぁ結果は苦い思い出になったのですが。

関東大会千葉県予選。相手はとなりの市の八木ヶ谷小でした。僕たちは初めての大きな大会。自分たちの前の試合では塚田小が試合をしています。県で2位とかの学校のバスケットを見てなんだこれと思った記憶がかすかにあります。(相手は成田ボンバーズ、通称成ボンだったような気がするけど)
そして自分たちの試合、普通だったら勝てる試合を後半からじわじわと詰められてきます。10点以上勝っているのに雰囲気はまるでこっちが負けているチーム。
ずるずるといって最後には逆転負け。初めての県大会は1回戦で幕を閉じたのでした(隣では自分たちが勝った谷津が勝ちあがっているのをみて悲しくなりました)

そのあとになんか大会があったのかどうかは良く覚えてないけど1月。迎えた最後の冬の大会。
これが正真正銘最後の。そして全国ミニバスに続く大会でした。
予選リーグは3チームの総当りで1位が隣のブロックの1位と試合。勝ったほうがその後の決勝トーナメントへ行けるという流れでした。
つまり初日で6チームのうち1チームしか上に行けない。
どことやったかは覚えてないけどなんとなく勝って無事、6チーム中の1チームに入りました。(BEARSと当たったのは覚えてるな)

その次の日か次の週。始まる決勝トーナメント。
この時点で残っているチームは32チームです。1回戦は清水台。今でも覚えています。接戦からの1点勝ち。残り10秒切っているようなところでゴリが痛恨の5ファウル。しかもシュートファウル。今でも覚えています。シューターを後ろから両手で突き飛ばした絵をwwww
この時点でもうだめだとか思っていたら相手がフリースローをひとつ落とした!この時点で同点!


でも延長になったらゴリ不在では勝てそうに無い残り1秒で適当に打った自分のシュートがファウルになり2スローをもらえる!
きましたね。このときが一番輝いていた。

1本目のフリースローを沈めて勝ち越したのを覚えています。2本目は外したのも覚えています←

なんとか勝ちを拾った県大会。次に当たったのは津田沼小。
いけるだろとか思ってたら相手の外のシュートが入る入る!(後の市立船橋のキャプテンと習高のキャプテン?)のいるチームに10点差で負けて僕らの小学校生活は県でベスト16で幕を閉じるのでした。でも正直このときは市内で1勝が目標だったチームが県で16に行けるなんて満足とか思っていましたけど。
当時は親も熱心だったなぁとか思います。

そんなこんなで幕を下ろした小学校のバスケ生活。
そんなに悪い思いでも無く。きつかった練習も忘れて中学校へと進むのでした。

次回、中学校偏へ続きます。ありがとうございました。